すべてのテクノロジーオタクに感謝したいニコラ・テスラ記念日

今日7月10日は、ニコラ・テスラ記念日。100年以上前の一人のセルビアアメリカ人発明家が、人類を第二の産業革命へと導いた。モーターや電気、無線通信技術、X線など、幅広い彼の発明の恩恵を受けていない現代人は誰ひとりいない。
テスラは、史上で最も偉大なナード(nerd 人付き合いが苦手なテクノロジーオタク)だった。ギークgeek イケてる技術者)ではなかったのが残念だけれど。イーロン・マスクが、エジソンモーターズではなくテスラモーターズ(現テスラ)を社名に選んだことに、深く敬意を感じる。ギークでもなければ、ナードですらない一般人ができる感謝として、長文でニコラ・テスラの功績と人生を紹介したい(2015年7月10日の投稿を一部編集)。

 

Nikola Tesla

https://en.wikipedia.org/wiki/Nikola_Tesla

https://ja.wikipedia.org/wiki/ニコラ・テスラ

 

エジソンは「似非ギーク

大抵の人はトーマス・エジソンのことを、電球を発明した人、電気の父だと思っているだろうが、違う。彼は、自分よりも先に電球の発明に挑戦していた他の22人のアイデアを改良し、ただ電球の『売り方』を考えついただけなのだ。つまり、彼ははギークではなく、CEO(最高経営責任者)だったのだ。
実は、テスラは駆け出しの頃、エジソンのために働いたことがあった。エジソンはテスラに、うまく行かずに困っていた交流発電機とモーターの問題を解決するように、現在の価値に換算して100万ドル(約124万円)で頼んだ。テスラがエジソンの機械を修理し、約束した代金を要求したところ、エジソンはこういって鼻で笑った。『テスラ、キミはアメリカ人のユーモアってものが分かってないねぇ』。
エジソンと仲違いした後、テスラは自分の「交流(AC)」電気の仕組みに取り組んだ。エジソンの直流システムは、いち四方マイルごとに発電所が必要だったので、遠くまで送電できなかった。一方、交流は細い送電線を使い、高い電圧を持ち、長距離の送電が可能だった。
そこで、エジソンはどうしたか?彼は、テスラの交流電気を使って、集めた犬や猫を公開で感電死させて見せた。彼の目的は、テスラの交流システムを公に誹謗中傷し、家庭で使うには危険すぎると人々に信じ込ませることだった。エジソンは、ギークの立場で活動した典型的な「似非ギークだった。

 

 

ラジオにレーダー、X線地震発生装置まで

テスラは、間違いなく天才だった。8カ国語を操った。彼は、すべての本を記憶し、意のままに暗唱できた。装置をすべて頭の中で視覚化できたので、何も書き記すことなく作り上げられた。驚くようなものを発見するのに、書き留めることを忘れることで知られていた。
テスラの発明は実に幅広い。
グリエルモ・マルコーニは、ラジオを発明したことでノーベル物理学賞を受賞した。しかし、彼の実験はすべて、それよりも前にテスラが行ったことを下敷きにしていた。マルコーニは、大西洋を越えたメッセージを初めて送信し、世界的に有名になった。そしてこれがテスラの返事だった。『マルコーニは、いい仲間だ。続けさせてやってくれ。彼は私の特許を17個使っている』。
1935年にレーダーを発明したのは、ロバート・A・ワトソン-ワットというイギリス人科学者だと記録されている。しかし、このアイデアはその18年も前にテスラによって考え出されていた。彼は、第一次世界大戦の初期に、アメリカ海軍にレーダー技術を売り込もうとしていた。残念ながら、当時、アメリカ海軍の研究開発部門の幹部がエジソンだったので、レーダーは実戦では役に立たないと軍に信じ込ませた。
ヴィルヘルム・レントゲンは、一般には、X線の発見者として記録されている。これも、テスラの発明だ。最初にX線が発見された時、視覚障害やその他の慢性病を治療できると信じられていた。テスラはX線が危険だと警告し、医療実験を行うことを拒んだ。
一方、エジソンはすぐにX線実験の人体実験に取り掛かった。従業員のひとりであるクラレンス・ダリーは、放射線に強く曝された結果、両腕両脚を切断しなければならなかった。だが、その甲斐もなく、結局、彼は縦隔(じゅうかく)ガンで死亡した。ダリーは、放射線による実験で死亡した最初のアメリカ人だと考えられる。エジソンは度重なるX線の放射により、ほとんど目が見えない状態になってしまった。
ナイアガラ滝に、初の水力発電所を建設し、この種の動力が現実的なエネルギー源になり得ることを証明したのも。
発明されるほぼ半世紀前に、低温工学を実験していたのも。
後にトランジスタ開発に使われる特許を、100年以上も前に持っていたのも。
宇宙空間からのラジオ電波を録音した最初の人物も、地球の共振振動数を発見したのも。
稼働させればニューヨーク市の周辺全部をほとんど破壊するような、地震発生装置を作ったのも。
球体の形状をした雷で、地上からある程度の高さの上空をゆっくり漂って移動する球電光を実験室で作り出すことに成功したのも。
リモートコントロールを発明したのも、ネオン雷光無線通信、現代の電気モーターも。
すべて、ニコラ・テスラが発明したのだ。

Nikola Tesla, with his equipment  Wellcome Library, London  CC BY 4.0

Nikola Tesla, with his equipment  Wellcome Library, London  CC BY 4.0

 

マッドサイエンティストの孤独な生涯

印象的なことに、彼は生涯独身であった。約2m(6フィート6インチ)という長身で、女性たちに圧倒的に人気があったにも関わらず、自分の研究の邪魔になると信じていたためデートを拒んでいた。彼は、自分の仕事に閉じこもっている時が一番幸せを感じる唯一の時間だと、よくいっていた。
この信じられないような数々の発明で、テスラは幸せな生涯を過ごしたかというと、残念ながら、そうではなかった。テスラが生きていた時代は、世界が実用的で儲かる結果を求めていた。人々は、ラジオ気象学を求めていたのではなく、電球とトースターオーブンが欲しがった。テスラの数々の貢献は、あまりにも革命的過ぎていたのだ。
テスラから世界への最後の贈り物は、ニューヨーク市近郊に建設した「ウォーデンクリフ・タワー」で、地球の電離層から電気が雨のように降り注ぐ、無料の無線エネルギーを供給できるはずの装置だった。そのタワーの建設資金を調達したジョン・P・モルガンは、エネルギーを規制する方法が無いことを知り、金を生まないことから建設を中止した。
この他者の所有欲や貪欲さは、テスラの生涯を苛み、今では一般に知られている心身の病に苦しんだ。彼は幻覚を見るようになり、現実と想像の区別をつけにくくなっていた。何年も自分の研究施設に独りこもって、昼夜を問わず研究に没頭していたからだった。
彼のメランコリーは1909年にマルコーニがノーベル賞を受賞した時に、苛立ちへと変わった。『あいつは間抜けだ』。マルコーニの会社を著作権侵害で訴えたが、巨大企業を相手にする力は残っていなかった。
1915年、ノーベル物理学賞エジソンと同時に授与されたが、テスラ自身もニューヨークタイムズの表紙で知ったほどに驚いた。しかし、一週間後、賞は他者に授与された。公式な説明がなかったものの、エジソンと賞を分けることを嫌ったためだと噂された。
新しい科学のスターであるアルバート・アインシュタインが登場し、相対性理論が世界の注目を集めた。テスラは、彼の原子力の研究に警鐘を鳴らしたが、誰もテスラの忠告には耳を傾けなかった。テスラは、神秘主義に傾倒していき、その頃つきあい始めていたドイツ人神秘学者ジョージ・シルベスター・ヴェレックに宛てて、「Fragments of Olympian Gossip」という奇妙な詩を書いた。

https://en.wikipedia.org/wiki/Fragments_of_Olympian_Gossip


第一次世界大戦が近づきナチス党が台頭する中、ドイツ軍の戦闘機を雷光で空から打ち落とす「テレフォース」を、ドイツに敵対する世界各国の軍隊に売り込もうとした。結局、提案は非現実的なものとして取引は失敗に終わり、ただの狂った老人だと思われるようになってしまった。彼の未来的なアイデアは、SF映画や雑誌で取り上げられるだけだった。
最後まで、アメリカ政府にビーム兵器のコンセプトを売り込もうとし、2人の政府技師の計らいでホワイトハウス高官との会合が予定されていたが、実現はしなかった。1943年1月7日に孤独のうちに、ニューヨーク市マンハッタンの「ホテル ニューヨーカー」の粗末な部屋で死んだ。享年87歳。ラジオで追悼が流れた。

 

 

●ありがとう、テスラ

Nikola Tesla

晩年の彼は、牛乳とナビスコのクラッカーを食べて生活していたが、ニューヨークの公立図書館の前で鳩に餌をやったり、傷ついた鳩をホテルの部屋に連れ帰って世話をするようになっていた。最後のインタビューのひとつで、非常に個人的な実際の姿の一部を明らかにしていた。
『ずっと鳩に餌をやっていた。何千羽も。何年間も。一羽の鳩がいて、綺麗だった。純白で羽の先が明るい灰色の。その鳩は、他とは違っていた。雌だった。どこにいても見つけられた。私がどこにいても、その鳩も私を見つけた。その鳩に会いたいと思えば、そう願って呼ぶだけで、私の所へ飛んできてくれた。鳩は私を理解し、私はその鳩を理解していた。
私は、その鳩を愛していた。そう、女性を愛するようにその鳩を愛していたし、鳩も私を愛してくれていた。鳩を見ると、私に伝えようとしていることが分かった。鳩の死期が近いのだ。そのメッセージを受け取った時、鳩の目から光が放たれた。とても強い光だった』

彼が発明した技術は、日常生活に使われることで沢山の幸せを生み出し、軍事に使われることで多くの人々を不幸にした。彼にとっては、人間としての善悪よりも、技術的な好奇心の方が遙かに重要なことだったように感じる。心を病むほどの孤独というあまりにも悲しい最期であったが、それも含めて深く感銘を受けた。ナビスコとコーヒーで鳩おじさん化していても、横でじっと静かに付き合いたい。そして今すぐ、小学校の図書館にあるエジソンの伝記をテスラの本に置き換えたい。
2013年5月2日、テスラの旧研究施設は博物館として救われたが、彼の生涯を掛けた素晴らしい数々の功績はもっと正しく評価されるべきだ。これから活躍する、次のテスラのためにも。

参考:Why Nikola Tesla was the greatest geek who ever lived - The Oatmeal

theoatmeal.com